戦乱のゆくえ

山名宗全は1473年3月に70歳で病死し、細川勝元もその2か月後に44歳で病死しました。

 

 

このとき、細川氏では勝元の実の子である政元が当主になり、それまであとつぎとされていた養子の勝之は出家します。宗全の娘を母としてうまれた政元は宗全の孫にあたります。

 

 

これはすでに細川氏と山名氏のあいだに和平への糸口が見えていることを示しています。もはや乱を起こした当事者たちは亡くなっており、両家が争う理由がなくなっていたのです。結局、細川氏と山名氏は翌年に和睦し、山名氏は義政の幕府に降伏しました。

 

 

 

 ところが争いはさらに3年半も続きます。応仁の乱は文正の政変後に幕府の主導権をにぎった宗全が畠山義就を呼び込み、大内政弘が参戦し、義視が西軍に将軍として迎えられたことで乱は大きくなりました。

 

 

山名氏が抜けたあとの西軍の中心は大内政弘と畠山義就でした。大内氏は中国との貿易の主導権をめぐって細川氏と対立していました。義就も畠山氏の当主の地位を確立するために政長を倒す必要がありました。どちらも戦いをやめることができなかったのです。

 

 

 それでも京都で戦っているあいだに留守にしていた分国が乱れてきたことで大内氏も足利義政との和睦を考え始めます。1477年、畠山義就は京都を離れて河内国に下り、その国内の畠山政長の勢力を追い出して実力で一国を治める体制をかためます。それをみとどけた大内政弘以下の西軍の大名たちは一斉に京都を出て自分の領国へと戻りました。

 

 

政弘はその直前に4か国の守護職を義政に認められていて、義政の幕府と和睦を果たしています。義視を将軍とした西軍の幕府は解散し、義視は美濃国守護の土岐氏の保護を受けて美濃に向かいます。

 

 

 

 大名たちが分国に下ったことで京都での戦乱は終わりましたが、大名同士の争いがすべて収まったわけではありません。播磨・美作・備前の3か国をめぐる赤松氏と山名氏の争いはさらに10年間続きます。

 

 

また、河内国と山城国南部の畠山義就と政長の戦いは、その後、何世代にも渡って続くことになります。この辺りまでは幕府の決定として守護に任命されていましたが、このころからは実力で守護職を奪うものになっていきます。管領も儀式があるときだけに置かれる臨時職になります。

 

 

また、京都に住むことを義務付けられていた大名たちは、これ以後分国に住むようになります。大名とともに京都に住んでいた家族や家臣も分国に帰っていったことで京都の人口は大幅に減少しました。