鎌倉時代の応仁の乱と、東軍・西群・・・大乱勃発

幕府の主導権をにぎった山名宗全は将軍義政の命令として細川勝元が畠山政長を支援することを禁止します。追い詰められた政長は屋敷に火をかけて上御霊社に陣をしき、義就と戦いました。しかし勝元が援軍を送ることができなかったために敗走します。まずは宗全側の圧勝でした。

 

 

 宗全に出し抜かれた勝元は反撃の準備をすすめます。5月に入り、赤松氏が山名氏の分国の播磨国に攻め込んだのを手始めに各地で細川派の大名が動き始めます。そして両者は軍勢を京都に集めて、にらみ合いを続けます。

 

 

ついに5月26日、細川一族と若狭国守護の武田氏が将軍の御所の西側にある山名方の丹後国守護の一色氏の屋敷に攻撃を仕掛けました。有力大名が二手に分かれて11年間も続いた戦いのはじまりです。この大乱はこの年3月に文正から応仁に改元されたことから応仁の乱と呼ばれています。

 

 

 

 一色氏の屋敷を落とした細川方は室町第に本拠を置いて義政、義尚、義視らを自分たちの陣営にむかえることに成功します。山名方は室町第の西側に陣を張ったので西軍、細川方は東軍と呼ばれました。山名宗全が陣をかまえた辺りには今も西陣という地名が残っています。

 

 

 東軍は6月初めに義政から軍旗を渡され、正規の幕府軍として認められたので優勢に戦いをすすめました。しかし8月に入って、周防・長門・筑前・豊前の4か国の守護だった大内政弘が瀬戸内海を船ですすんで京に入ると西軍が勢いを盛り返します。天皇や上皇は義政たちと行動をともにするために東軍が守る室町第に避難しました。

 

 

 さらに状況を複雑にしたのは、天皇や上皇が避難してきたのと同じ日に、義視が逆に室町第を抜け出して伊勢国に下ったことです。義視がこのような行動をとったのは、義政が伊勢貞親を呼び戻そうとしたためのようです。義視は翌年9月に兄の義政から再三の呼び掛けに応じて京に戻ります。

 

 

しかし義政が伊勢貞親も呼び戻したため、11月には義視は室町第をまたも抜け出し、西軍の陣にはいります。西軍は義視を将軍としてむかえ、将軍に対する反乱という汚名を返上します。この結果、東西ふたつの幕府がならびたつことになったのです。

 

 

 

 

 京都での激しい戦いは3年あまりつづきます。鎌倉時代のように弓矢をもって馬に乗った武士同士が戦うのではなく、槍や長刀をもった足軽と呼ばれる歩兵集団が主力となり、町の中で戦いを繰り広げました。足軽には京都近郊で集められたならず者が多く、放火や略奪も多くありました。