応仁の乱

 多くの大名が伊勢貞親を追放するように足利義政に訴えてくるようになると、将軍も無視するわけにはいきません。義政は一番たのみにしていた貞親を追放しなくてはいけなくなりました。これを文正の政変といいます。

 

 

 この政変でいったんはまとまった大名たちが、共通の敵だった伊勢貞親が追放されると再び対立を強めていきます。そのなかで決定的な動きをしたのが山名宗全でした。宗全は娘を細川勝元に嫁がせて細川氏の側に立っていましたが、赤松氏の復活をめぐって細川氏と対立するようになっていきました。

 

 

細川氏は、もともと関係の深かった赤松氏が大名として復帰することを支持しました。しかし、赤松氏の分国を吸収することで勢力を拡大した山名氏にとっては、せっかく手に入れた領国を失う可能性が出てくることになります。勝元も跡継ぎとなる男子がいなかったため、はじめ宗全の子を養子に迎えましたが、その後、細川氏の一族からも養子を迎えます。このことも宗全の心が勝元から離れる理由の一つになりました。

 

 

 

 そして、宗全が畠山義就を京都に呼び寄せようとしたことで、宗全と勝元は完全に対立するようになりました。畠山氏の当主をめぐる争いは細川勝元が支持した政長が当主として認められ、管領の職にもついていました。

 

 

いっぽうの義就は幕府から追い出され、河内国に立てこもって幕府の軍勢と3年間にわたって戦い抜きます。その城が落城してからも大和国や紀伊国の境あたりを本拠にして活動していました。

 

 

 文正の政変の翌月、山名宗全は畠山義就を許して京都に呼ぶことを将軍義政に要求します。政長を後押しする細川勝元に対して優位にたち、伊勢貞親の追放で将軍の力が弱くなった幕府のなかで主導権を握ろうとしたのですが、義政がこの要求を認めると、義就は年末に京都に入り、すぐに政長を追い払おうという動きを見せます。これが応仁の乱の引き金になったのです。

 

 

 

 年が明けた1467年正月、畠山義就は将軍足利義政に対面し、正式に幕府に復帰します。そのあおりを受けて畠山政長は管領の職を辞めなければならなくなり、かわって山名宗全が推薦した斯波義廉が管領になりました。

 

 

宗全が細川勝元と対立する側にまわったことで幕府の中で反細川派の勢力が急激に優勢になったのです。畠山政長は義就に京都の屋敷を明け渡すようにもとめられますが、細川勝元の支援を受けて、その要求を跳ね除け、屋敷を明け渡そうとはしませんでした。