大乱のきざし

 幕府は、6代将軍足利義教が赤松満祐に殺されるという非常事態にみまわれました。

 

 

そこで管領の細川持之が中心となって満祐を討伐することになりました。ところが細川氏はもともと赤松氏と親しかったので戦いには消極的でした。このとき積極的に戦って赤松氏を滅ぼし、赤松氏が守護になっていた国のほとんどを手に入れたのが山名持豊です。

 

 

山名氏は3代将軍義満のとき、一族の内紛をきっかけに大きく勢力をけずられ、その回復をめざしていたのです。山名氏の分国は赤松氏の分国の西側と北側に位置していたので、赤松氏の分国を吸収することは、そのまま勢力の拡大につながりました。

 

 

 

 独裁をおこなった義教が殺されたことは他の大名にも変化をもたらしました。義教の命令で地位を失った人々が復活してきたのです。

 

 

たとえば有力大名の畠山氏では義教の意向で持国が当主の地位を追われ、弟の持永がその地位についていました。分国の紀伊国に引きこもっていた持国は義教が殺されるとすぐに京都に戻り、持永から当主の座を奪い返します。

 

 

このような当主の交替は家臣にも影響を及ぼします。新旧それぞれの当主を支持する家臣があらわれて大名家の内部分裂の原因になったのです。

 

 

 

 

 そのようななかで、7代将軍足利義勝が1443年にわずか10歳で病死し、8歳の弟の義政があとをつぎました。幼い将軍がつづき、幕府の政治は管領を中心に大名たちの手でおこなわれるようになります。

 

 

義教の時代まで、幕府の最終的な決定は将軍がくだしたので、大名たちの意見は将軍が意思決定する際の参考にすぎませんでした。ところが幼い将軍のもとでは大名たちの意見がそのまま幕府の決定になってしまいます。

 

 

大名同士の利害が対立した場合は将軍が指導力を発揮して調整することが必要です。しかし、幼い将軍にはそれができません。そのため、強い勢力を持っている大名が、力で相手を押さえつけるようになります。大名たちは決定の責任者になる管領を中心に二手に分かれて勢力争いを繰り広げるようになっていきます。

 

 

 

 管領の織につくことが認められていた大名は斯波・細川・畠山の3氏だけでした。このうち斯波氏は年少の当主がつづいたことが影響し、勢力が衰えていました。そのため細川・畠山の両氏が争いの中心になります。

 

 

細川持之のあとをついだ勝元は赤松氏の討伐を通じて勢力を拡大した山名持豊(宗全)の娘を嫁にむかえ、山名氏を細川氏の側にとりこんでいきました。