鎌倉の反乱と義教の最期

義教を支えたのは奉行人といわれる官僚たちでした。義教も奉行人を重視したので幕府内での彼らの地位が高まりました。義教も大名たちの意見を聞かなかったわけではありません。

 

 

しかし、奉行人というあたらしい政治集団が登場したことにより、将軍は大名たちに頼らなくても政治を行うことができるようになったのです。また義教は奉公衆をととのえ、将軍直属の軍事力も強化しました。

 

 

 そのころの室町幕府にとっては東国との関係が大きな問題でした。東国の支配は鎌倉公方と鎌倉府に任せていましたが、鎌倉公方は次第に京都の幕府に強い対抗心をもつようになっていました。1399年に大内義弘が堺で幕府に反乱を起こしたとき、鎌倉公方の足利満兼も大内氏に応じて挙兵しようとしていたほどでした。

 

 

 

 鎌倉公方の動きに疑いを感じた将軍側は佐竹氏や宇都宮氏など北関東の有力武士との関係をつよめ、鎌倉公方の監視と牽制にあたらせました。しかし、鎌倉公方が彼らに攻撃をしかけたため、京都の幕府と鎌倉府の緊張は高まっていきました。

 

 

 足利義教が将軍に就任したときも鎌倉公方足利持氏はそれを認めず、祝いの使者も送ってきませんでした。将軍交替に続いて後花園天皇が即位したため、年号も正長から永享に改められましたが、持氏はそれも受け入れず「正長」を使い続けました。

 

 

 ついに足利義教と持氏の関係は合戦に発展し、1438年に永享の乱がおこります。結局戦いは幕府軍の勝利に終わり、持氏は自殺に追い込まれました。

 

 

 

こうして幕府にとっては長年の政治問題が解決しましたが、これをきっかけに新たな問題が発生してきました。幕府内で義教の独断的な行動が増えてきたのです。

 

 

もともと義教は些細なことで周囲の人々を厳しく処罰することが多く、そのため公家たちからも恐れられていました。

 

 

永享の乱のあとは、その処罰が大名たちにも向けられるようになりました。畠山氏や富樫氏では当主が追放され、一色氏や土岐氏では当主が殺されました。

 

 

 

 鎌倉公方という共通の敵がいなくなって、将軍と大名を支えていたバランスが崩れてしまったのです。大名たちの結束も緩み始め、義教の暴走を止められなくなってきていました。そうしたなかで起こったのが嘉吉の乱です。

 

 

 1441年、義教は大名赤松満祐の屋敷に招かれました。表向きは関東平定のお祝いということでしたが、次は自分が処罰されるかもしれないと義教を恐れていた満祐が宴会の席で義教を暗殺したのです。