大名とくじ引き将軍

 1395年に九州探題今川了俊が突然に探題を辞めさせられてしまいます。了俊はすぐれた軍事能力を発揮して、九州の南朝勢力の平定に功績をあげていました。しかし、義満はその勢力が強くなりすぎることを嫌ったのです。

 

 

 

 こうした強引な方法ばかりではなく、義満は大名たちの勢力基盤にも目をつけていました。義満は、各地の有力武士を将軍直属の奉公衆にしたのです。大名たちは各国の守護として、国内の武士たちと関係を強め始めます。

 

 

奉公衆は、そうした守護の勢力拡大の動きをおさえることになりました。

 

 

 

 以上のように、義満は大名たちの力をおさえながら将軍の権力の強化につとめました。

 

 

 しかし、義満の死後、あとを継いだ義持は大名たちと協調して幕府政治を安定させる方針をとっていきます。

 

 

 室町幕府の政治は大名のなかから選ばれた管領が将軍を補佐するかたちですすめられました。義持は必要に応じ、管領を通じて大名たちの意見を聞きました。ときには大名たちに会議を開かせ、彼らの合意を得たうえで、政策を決定しました。

 

 

大名たちにとっても、幕府の政策決定に関わっていることは、彼らの守護としての権威につながりました。そのため現地の支配は守護代などにまかせて、自身は京都に滞在して義持に仕えました。

 

 

 

 1428年、義持は危篤になります。義持の一人息子で5代将軍義量は、すでに1425年に19歳で亡くなっており、そのあとは義持が前将軍という立場で政治の実権をにぎったままでした。

 

 

そこで管領畠山満家らは後継者を指名するよう義持に求めました。しかし義持の答えは「たとえ自分が指名しても皆の支持がなければ意味がない。管領以下で相談して決めなさい」というものでした。義持の政治が大名たちとのバランスの上に保たれていたことがわかります。

 

 

 後継者選びを任された大名たちは石清水八幡宮の神前でくじを引いて義持の弟たちの中から新将軍を決めることにしました。

 

 

 

中世の人々はくじの結果には神の意思が示されていると考えていました。また、石清水八幡宮は源氏の一族である足利氏の守り神でもありました。こうして選ばれたのが延暦寺青蓮院の僧になっていた義円です。義円はただちに名前を義教とあらためて、室町幕府第6代将軍に就任しました。

 

 

 くじ引きというそれまでにない手続きで将軍になった義教ですが、将軍就任当初から意欲的に政治に取り組んでいきます。とくに義教が重視したのは裁判制度の充実でした。義教自身も法廷に立ち合い、判決をくだしました。