将軍と大名

 1395年、義満はわずか38歳で太政大臣をやめて出家します。それ以前に将軍の地位も息子の義持にゆずっていましたが政界から引退したわけではありません。

 

 

むしろ将軍や大臣といった官職に制限されずにその力を振るうようになったのです。義満が目指したのは摂政・関白を上回る上皇の立場でした。

 

 

外出するときの服装や、貴族とやりとりする手紙の書き方など、いずれも上皇のやりかたをまねをしました。1399年には室町第よりも豪華な北山第を造営しますが、その建物は内裏や院の御所を手本につくられていました。こうした外見をまねするだけではなく、義満は北山第から朝廷に実際に指示を送っており、そのすがたは院政をおこなう上皇に等しいものでした。

 

 

 

 1408年に義満は急死してしまいましたが、義満は公家社会も支配したことによって、室町将軍の権威と権力は鎌倉幕府以上に高まりました。 

 

 

 幕府の内部では「大名」とよばれる有力武将たちと将軍の関係が重要です。大名たちは各地の守護に任命され、室町幕府の軍事力をになうとともに、幕府内でも大きな発言権をもっていました。

 

 

 とくに足利義満が10歳で将軍についた当初は、彼が幼かったこともあり大名たちを十分統率することができませんでした。1379年には細川頼之、斯波義将という大名同士の大規模な勢力争いがおきます。義満はなんとか事態をおさめようと、大名たちを説得しましたが効果がなく、逆に斯波義将に詰め寄られて細川頼之を処罰することになってしまいました。

 

 

大名同士の勢力争いは、幕府政治に不安と混乱をもたらしました。しかしなによりも、将軍の権威と権力を脅かすおそれのある問題でした。成長するにつれ義満は大名たちの勢力を力でねじふせていくようになります。

 

 

 1389年に美濃・尾張・伊勢3ヵ国の守護職をにぎっていた土岐氏、1391年には全国には全国の6分の1にあたる11か国の守護職を独占し「六分一衆」と呼ばれていた山名氏が義満の標的にされました。いずれも幕府が相続争いに口出しをして挑発し、守護を反乱に追い込み討ち取るという方法がとられました。この結果、土岐氏は伊勢国を取り上げられ、山名氏も8か国の守護職を失いました。

 

 

 

 さらに6か国の守護職をにぎり、瀬戸内海航路をおさえて、明との交易も行おうとしていた大内氏も挑発されました。1399年、大内義弘は他の大名たちにも呼び掛けて和泉国堺で挙兵しましたが、義満に敗れて戦死してしまいます。大内氏には長門国・周防国の守護職のみが残されました。