室町幕府と京都・幕府

室町幕府は南北朝内乱を戦いながら武家政権を作り上げたため、鎌倉幕府とは異なる道を歩みました。そもそも後醍醐天皇率いる吉野の南朝への対抗上、京都に北朝をたてるという戦略をとっていました。

 

 

そのため武家政権がうまれた地である鎌倉に心残りがありながらも京都を拠点にしなければならなかったのです。

 

 

 

 しかし、鎌倉幕府以来の東国武士があつまる東国が、幕府にとって重要であることは変わりありません。そこで足利尊氏は息子の義詮、続いてその弟の基氏を鎌倉に送り、東国支配を任せました。こうして成立したのが鎌倉府です。

 

 

鎌倉府は甲斐・伊豆・陸奥・出羽各国の支配も室町幕府から任されました。その長官を代々つとめた基氏の子孫は、その後、鎌倉公方と呼ばれるようになりました。将軍の地位は義詮の家系が受け継いでいきましたが、この二つの家系は次第に対立するようになっていきます。

 

 

 

 ところで商業や金融経済の発展期をむかえた京都を支配することは大きな魅力でもありました。室町幕府は1393年から京都で活動する土倉・酒屋などの金融業者から税金をとりたてはじめました。

 

 

これは幕府の財政を大きく潤すことになったのです。こうした税を取り立てるためには京都の治安を安定させて、彼らの経済活動を保護する必要があったので、幕府は京都の警察や裁判も行うようになりました。室町幕府は朝廷にかわって京都支配に乗り出していったのです。

 

 

 もちろん、朝廷は幕府にとって必要な存在でしたから朝廷の儀式や行事の費用を提供するなど幕府も協力は惜しみませんでした。しかし、足利尊氏や2代将軍義詮はそれ以上の協力はしませんでした。朝廷の儀式に参加したり、天皇や院の御所に参上したりすることはほとんどなく、大納言以上の官職に任命されることもありませんでした。

 

 

 

 ところが3代将軍の義満は積極的に朝廷にかかわっていくようになります。わずか24歳で内大臣に任命されて父や祖父の官職をこえると、その後も昇進を続け、ついには太政大臣までのぼりつめます。

 

 

また、朝廷の儀式や行事にもたびたび参加し、摂政や関白のようにふるまいました。

 

 

 公家社会の側にも、すすんで義満と結びつこうとする動きがありました。実権をうしなった朝廷や摂政・関白にかわって荘園の保護や昇進の世話をしてもらうため、多くの貴族が義満のまわりにあつまってきました。1378年、義満は「花の御所」とよばれる壮麗な邸宅である室町第を造営します。