鎌倉時代記事一覧

1156年(保元元年)、鳥羽上皇が崩御します。すると後白河天皇、美福門院、信西、藤原忠道らと、これに対抗する崇徳上皇、藤...

平清盛とともに保元の乱の功労者として昇進した源義朝も信西と距離をおくようになっていました。このように信西と対立する人々が...

 平氏が思い通りに朝廷を動かすようになったことに公卿の藤原成親や西光ら院の近臣に不満が高まっていきました。1177年には...

 戦いを職業とする武士は平清盛のような人物を除いて、普通は貴族より身分が低かったため、自分が荘園の持ち主になったり、受領...

1179年、政治の主導権をめぐって対立を深めていた後白河上皇と平清盛はついに激しく衝突します。きっかけは摂関家の近衛基実...

1180年には高倉天皇が子の安徳天皇に位を譲り院政をはじめました。安徳の母は平清盛の娘の徳子でした。清盛が望んでいたとお...

 源頼朝がはじめに攻撃した相手は山木兼隆でした。兼隆を討ち取った頼朝は伊豆国や相模国の武士を率いて箱根石橋山で平氏方の軍...

 平氏が京都を出て行くと入れ替わりに源義仲や源行家、安田義定をはじめとする各地の源氏の軍勢が入ってきました。後白河上皇を...

 後白河上皇は平氏に「和平交渉を行うから休戦する」と連絡して油断させ、そのすきに義経らに攻撃させました。この戦いは「一ノ...

源頼朝からの圧力を受け続けた藤原泰衡はそれまで保護していた源義経を攻めて自殺に追い込みました。しかし頼朝の本来の目的は奥...

鎌倉幕府という政権をささえる根本は「御家人制」という主人と家来の関係でした。幕府の最高責任者である源頼朝の家来になった武...

1192年に後白河上皇が亡くなり、後鳥羽天皇が政治を行うようになりました。院政がふつうの政治のかたちと考えられていたこの...

1203年、源頼家が重病になると北条政子と父の時政は頼家が持っていた将軍の権限を一幡と頼家の弟である実朝に分割して相続さ...

源実朝の信頼をうけて活躍したのが相模国の有力御家人である三浦氏の一族で侍所別当の和田義盛です。しかし義盛の力が強くなるに...

源実朝が暗殺された後、将軍の跡継ぎは幕府と親しい貴族の西園寺公経が交渉して摂関家の九条道家の子である九条頼経に決まりまし...

 承久の乱の後、朝廷では後鳥羽上皇に背いてまで幕府に協力した西園寺公経が幕府からの全面的な支援を受けて政権の中心となりま...

治承・寿永の内乱(1180〜85)は朝廷の公家社会にも大きな影響をあたえました。諸国からの年貢は途絶えがちになり、同時に...

 浜口内閣は海軍軍縮条約を、なんとか海軍の穏健派や枢密院を味方につけて条約を批准しました。その翌月、浜口首相は右翼に狙撃...

平和到来の象徴である大仏や大仏殿の再建も、庶民の力がなくてはありえませんでした。後白河上皇からその再建を任されたのは重源...

 法然のもとに弟子入りしたのが親鸞です。親鸞は下級貴族の家に生まれ、9歳で出家して延暦寺で修行していました。しかし、法然...

 京都御所の周辺には江戸時代までは公家の屋敷が立ち並んでいましたが、現在はすっかりなくなってしまいました。そのなかで、い...

 鎌倉時代の成立によって、各地の荘園や公領は都の貴族や大寺社のほか、幕府の領地にもなりました。武士たちも荘官や地頭に任命...

古代以来の都であり、また荘園領主や武士が多く住む京都には全国から様々な産物が集まってきました。鎌倉時代になるとそれらを商...

9世紀に遣唐使が廃止されてから日本は外国と外交関係を結んでいませんでした。しかし中国大陸や朝鮮半島とは人やモノの活発な行...

フビライ=ハンの国書が来た時点で、朝廷や幕府はモンゴルが必ず攻めてくると考えていました。各地の寺社にモンゴル退散の祈祷を...

 弘安の役はモンゴル軍の計画どおりにはすすみませんでした。東路軍と江南軍の合流計画がくるってしまったうえ、博多湾岸に築か...

モンゴル帝国は文永の役・江南の役の2度にわたって九州を襲いましたが広く日本列島全体を見渡すとモンゴル帝国の襲来を受けた地...

 フビライ=ハンの国書以来、日本とモンゴルとのあいだには緊張関係がつづきましたが貿易は盛んにおこなわれていました。弘安の...

 来日した僧には一山一寧がいます。1299年にフビライ=ハンの孫であるモンゴル皇帝テムルの使者として来日しました。そのた...

モンゴル襲来の影響は、鎌倉幕府にも及んでいきました。まず、モンゴルと戦った御家人たちには恩賞を与えなくてはいけませんでし...

1284年に得宗北条時宗が34歳で急死し、あとにはまだ14歳の新得宗北条貞時が残されました。このとき幕府では積極的な政治...

 鎌倉幕府の打倒にたちあがったのは、後醍醐天皇でした。1321年末、後醍醐天皇は父の後宇多上皇が院政をやめたあとを受けて...

 1331年5月にふたたび倒幕計画が発覚すると、ついに後醍醐天皇も捕まり現在の島根県隠岐島に流されてしまいました。しかし...

 建武の新政には武士たちも不満でした。後醍醐天皇は幕府にかわって武士たちの領地を直接安堵する政策を打ち出しました。安堵と...

 後醍醐天皇が吉野で朝廷をたてたため、京都(北)と吉野(南)に二つの朝廷がならびたつことになりました。両者の争いは南北朝...

足利義満が室町幕府第3代将軍になった1360年代後半から内覧は終わりにむかいはじめます。大内氏や山名氏らが幕府に復帰した...

明と貿易するようになった日本ですが、両国にとっての問題は倭寇の取り締まりでした。そのころ倭寇と呼ばれる海賊集団が中国沿岸...

 11世紀ごろには南の島々でも水田稲作がはじまり、また鉄器の生産も本格的になるなど社会が大きく変わり始めた時期でした。も...

室町幕府は南北朝内乱を戦いながら武家政権を作り上げたため、鎌倉幕府とは異なる道を歩みました。そもそも後醍醐天皇率いる吉野...

 1395年、義満はわずか38歳で太政大臣をやめて出家します。それ以前に将軍の地位も息子の義持にゆずっていましたが政界か...

 1395年に九州探題今川了俊が突然に探題を辞めさせられてしまいます。了俊はすぐれた軍事能力を発揮して、九州の南朝勢力の...

義教を支えたのは奉行人といわれる官僚たちでした。義教も奉行人を重視したので幕府内での彼らの地位が高まりました。義教も大名...

 幕府は、6代将軍足利義教が赤松満祐に殺されるという非常事態にみまわれました。そこで管領の細川持之が中心となって満祐を討...

細川勝元は畠山氏のなかで、かつて持国の弟持永をささえた家臣たちが、持国の実の子である義就よりも甥の政長を支持していること...

 多くの大名が伊勢貞親を追放するように足利義政に訴えてくるようになると、将軍も無視するわけにはいきません。義政は一番たの...

幕府の主導権をにぎった山名宗全は将軍義政の命令として細川勝元が畠山政長を支援することを禁止します。追い詰められた政長は屋...

山名宗全は1473年3月に70歳で病死し、細川勝元もその2か月後に44歳で病死しました。このとき、細川氏では勝元の実の子...

応仁の乱は、幕府のありかたを大きく変えました。これまで大名が幕府の命令に従っていたのは将軍が守護職の任命権を持っていたか...